気ままな文章。

思ったこと、考えたことをそのまま。

14歳からの哲学

今久しぶりに、ちょっと本を読む余裕がないわけではなくなったので、

読書欲が燃えています笑

そのせいで勉強が進まない…

 

ある日、関連性なく、2人の人から、同じ本の話を聞きました。

すごい偶然。これは読んでみようと思った。

 

それが池田晶子さんの「14歳からの哲学」です。

端的に言うとこの本はすごい。もっと早く出会いたかった。

ものの見方、考え方が変わる。

というか、私の考え方の枠組みってなんなのだろう…となるので、

考えるときに、待って今私が考えていることは正しいのか?

どこからこの考えがくるのか?これは本当に「私」の考え?

っていうクッションが挟まるようになりました。

 

「自分」とはなにものなのか

それがこの本というか”哲学”、というか誰にとっても、

究極のテーマなのだと思います。

このテーマについて、これほどまでわかりやすく考えさせてくれる本は

他にない気がします。いやあんまり他を読んだことがないからわからないけど笑

 

この歳だからこそすんなり入ってくるものも多いし、

この歳だからこそ、それはちょっと違う気がするという部分もある。

そしてこの本を読んだからこそ(何が言いたいのかは読めばわかります!)、

この本に書いてあることにも疑問は持つ。

最初はなんだか当たり前のことだし、その当たり前について深く考えた内容も

どこかで聞いたことある、私も考えたことがある

つまり知っている…と思うのだけど、それが

「自分である」ということは、…(中略)…何を「自分」と言えばいいのかわからなくなるほど、すべてに広がっていくものなんだ。すべて、そう、宇宙の果てまでね。宇宙に果てがないのは、自分に果てがないのと、じつは同じことだったとしたら、どうする?     ―P63,L3~7

というところまでわかりやすく、まさに広がっていくのは、爽快感すら覚えるほどすごい。

 

さらに。

去年からの経験で私は、自己肯定とか自己受容、常識に縛られるということ

などについて、これでもかというほどまで悩まされた。

そして、ある一定の答えに行きついている。

自分の言葉で語ることもできるし、

多分これからの記事でもそこから得られた一定の私の考えというものは

随所に現れると思うのだけど、

それも含めてこの本には、私の言いたいことがたくさんわかりやすく言語化

されている。

これからこのブログでいろいろ書いていくにあたって、

この本は私の言いたいことの土台になっていくと思います。

 

さて、内容については私の言葉で語るよりも、

この本を実際に読んでもらった方が絶対に分かる、

自分の言葉よりも本の言葉の方が「言えている」ので

今の私に響いた箇所をいくつか引用したいと思います。

だから、「誰にとっても正しいこと」というのは、「みんなが正しいと思っていること」ではないということも、もうわかるだろう。「みんな」、世の中の大多数の人は、当たり前のことを当たり前だと思って、わからないことをわからないと思わないで、「考える」ということをしていないから、正しくないことを正しいと思っていることがある。でも、いくら大勢で思ったって、正しくないことが正しいことになるわけではないね。だから、たとえそう考えるのが、世界中で君ひとりだけだとしても、君は、誰にとっても正しいことを、自分ひとりで考えてゆけばいいんだ。なぜって、それが、君が本当に生きるということだからだ。 ―P23,L11~17

 

生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は、「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」とは、「ない」ということだね。無は、ないから、無なんだね。「死」は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。          ―P50,L3~7

 

自分が絶対的であるというのは、考えているのは自分だし、見ているのも自分である、自分でないものが考えたり見たりしているということはありえない、そういう意味で絶対的だということだ。…
…自分が存在しなければ、世界は存在しないんだ。自分が存在するということが、世界が存在するということなんだ。世界が存在するから自分が存在するんじゃない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在しているんだ。つまり、自分が、世界なんだ。 ―P67,L4~5・9~11

 

で、「社会」というのは、明らかにひとつの「観念」であって、決して物のように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり、考えたりしているのは自分でしかないのだから、どうしてそれが「自分の外」に存在しているはずがあるだろう。…

…「社会」なんてものを目で見た人はいないのに、人はそれが何か自分の外に、自分より先に、存在するものだと思っている。思い込んでいるんだ。                      ―P82,L5~7
「社会」とはちょっと違ったニュアンスで使われる「世間」という言葉がある。そうだな、君が言うなら、「みんな言ってるよ」「みんなやってるよ」というあの「みんな」のニュアンスかな。
さて、でも「みんな」って、誰のことだろう。みんなが言ってるやってることが、君の言うことやることにならなければならない理由なんてないよね。                    ―P84,L15~17・P85,L1

 

自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めることができる、自分を愛することができるということだからだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということなんだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないとわかるね。                               ―P100,L9~14
でも、そういう人を嫌いだ、イヤだと思うその気持ちは、まさしくイヤなものじゃないか。自分にとってイヤなことはしないのが、自分を愛するということだ。自分を愛する人は、自分を愛するからこそ、他人を嫌うということをしないんだ。             ―P103,L14~17
自分とは世界なのだと、「他人」の章で気がついた。だから、自分を愛するということが、そのまま、世界を愛するということなんだ。                    ―P104,L6~7

 

 

自分の外側にある道徳や法律がよいとし、また悪いとすることが、よいことや悪いことなのでは決してない。よいと悪いとを判断する基準値は、自分の内にしかない。だからと言って、それは、人によって違う相対的なものでは決してない。なぜなら、「よい」という言葉があり、「悪い」という言葉がある、そして、それらの意味をすべての人が知っているということは、絶対的なことだからだ。                                      ―P162,L9~13

 

自由というのは、他人や社会に求めるものではなくて、自分で気がつくものなんだ。自分は自分のしたいことをしていい、よいことをしても悪いことをしても何をしてもいい、何をしてもいいのだから何をするかの判断は完全に自分の自由だと、こう気がつくことなんだ。…自由は判断する精神の内にある。精神の内にしかないんだ。…社会制度がどうなのであれ、精神さえ自由ならば、人間は完全に自由であり得るという普遍の真理についてだ。                ―P168,L15~17・P169,L1~4

 

人間はあらゆる思い込みによって生きている。その思い込み、つまり価値観は人によって違う。その相対的な価値観を絶対だと思い込むことによって人は生きる指針とするのだけれども、まさにそのことによって人は不自由になる。外側の価値観に自分の判断をゆだねてしまうからだ。…人は、思い込むことで自分で自分を不自由にする。それ以外に自分の自由を制限するものなんて、この宇宙には、存在しない。
あらゆる思い込みから自分を解放した精神とは、捉われのない精神だ。自由とは、精神に捉われがないということだ。…何でもいい、何をしてもいい、何がどうであってもいいと知っている、これは絶対的な自由の境地だ。            ―P170,L11~16・P171,L6~9

 

人は、物質宇宙、星々が永遠に生成消滅を繰り返しているということに、意味や理由があるとはほとんど思わない。でも、それなら、地球という惑星になぜか存在し、生まれたり死んだりを繰り返している人間の人生にも、意味や目的はないはずではないだろうか。宇宙が、ただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。人生には意味も理由もなく、ただそのようにあるだけであっては、なぜ困るのだろうか。                                                                      ―P182,L9~13
自分が、存在する。これは奇跡だ。人生が、存在する。これも奇跡だ。なぜだかわからないけれども存在する自分がこの人生を生きているなんて、なんて不思議でとんでもないことだろう。…
人生が存在するということ自体が奇跡なんだから、そこで味わう苦しみだって、奇跡だ。…苦しみの意味や理由を求めて悩むことは少なくなるだろうし、人生が空しいだなんて思うこともなくなるだろう。                  ―P183,L5~6・9・11~13

自分の選択、それ以外に基準はない。したいことを為し、したくないことを為さないだけだ。よいことを為せば、よいことになり、悪いことを為せば、悪いことになる。何もかもが、思った通りになる。それなら、基準は明らかじゃないか。善悪という基準、価値の基準は、自分の中に、自分の心に、明らかに存在しているじゃないか。だから、人生を生きるための価値は、やっぱり明らかに存在しているんだ。ーP189,L16~17・P190,L1~3

 

 考えるということは、答えを求めるということじゃないんだ。考えるということは、答えがないということを知って、人がその問いそのものと化す

ということなんだ。どうしてそうなると君は思う。

謎が存在するからだ。謎が謎として存在するから、人は考える、考え続けることになるんだ。だって、謎に答えがあったら、それは謎ではないじゃないか。

…だから考えてもしようがないかというと、まさかそんなことはない。謎とは、自分の人生、この生き死に、この自分に他ならないのだったね。さっぱりわからないものを生きて死ぬということが、はっきりわかっているということは、自覚すること、人生の覚悟だ。だから、とても力強く生きて死ぬことができるんだ。        ―P196,L16~17・P197,L1~3・5~8

 

 

ここまで読んで、なんとなく自分でもそういう哲学的というか抽象的なことは

考えたことがあるとか、そういう話聞いたことあるっていう人。

それを自分で言語化できるだろうか?

こんなにわかりやすく言語化されてる本あんまりないと思うなー、、

この本を読みながら、自分の「言葉」で、考えると新たな発見があるよ。

 

そういう哲学的なことは嫌い、と思った人こそ、この本を読んでほしい。

なにがなんだかわからなくなるような部分は確かにあるけどそれも楽しいし、

でもやっぱりこの本はわかりやすく誘導してくれるから、わかるところもあって、

そういうよくわかんない抽象的みたいなことについてだからこそ、

知る、わかる、ということの楽しさを感じることができるんじゃないかな―

と思います。

 

長くなってしまったけど、とりあえず何が言いたいかというと、

この本を読んでほしい!